金価格の歴史(1990年代前半)冷戦の終結とソビエト連邦の解体
最終更新日: 2024-10-01
ページ制作日: 2024-07-12
1990年代前半は、冷戦の終結や経済成長、株式市場の活況、インフレの低下、強いドルなど、複数の要因が重なり合い、金価格にとっては低迷の時期でした。 この時期の金価格は、地政学的リスクの低下や経済的な安定を反映しており、安全資産としての需要が減少した結果、相対的に低い価格で推移しました。
東欧革命
東欧革命は、1989年から1991年にかけて東欧諸国で起こった一連の政治的変革を指します。この時期、多くの東欧諸国で共産主義政権が崩壊し、民主化が進みました。
東欧諸国とは
第二次世界大戦後、ソビエト連邦は東欧地域に対して強い影響力を持ち、これらの国々に共産主義政権を樹立させました。これらの国家は、ソビエト連邦の影響下にあり、実質的に独立した政策を持つことが難しい状態でした。
これらの国々は、ソ連の政治的、軍事的、経済的な指導のもとで運営され、ソ連の政策に従わざるを得ませんでした。
・ポーランド
・ハンガリー
・東ドイツ(ドイツ民主共和国)
・チェコスロバキア
・ルーマニア
・ブルガリア
・アルバニア
時代背景
東欧諸国は、計画経済のもとで産業の発展を目指しましたが、その非効率性と官僚主義が経済成長を阻みました。 1970年代から1980年代にかけて、これらの国々は深刻な経済停滞に直面しました。生産性の低下、物資の不足、そして生活水準の低下が進み、国民の不満が高まりました。 西側諸国の経済的繁栄と比較すると、その格差は一層際立ち、東欧諸国の市民は自国の経済体制の限界を強く感じるようになりました。
ソビエト連邦の政策変更
この時期、ソビエト連邦でも経済の停滞から改革の動きが始まりました。ミハイル・ゴルバチョフが1985年にソ連の書記長に就任すると、「ペレストロイカ」(改革)と「グラスノスチ」(情報公開)という政策が導入されました。 これらの政策は、ソ連内部の経済的・政治的問題に対処しようとするものでしたが、その影響は東欧諸国にも波及しました。特にグラスノスチは、東欧諸国での言論の自由と透明性の拡大を促し、政府に対する批判と改革要求が公然と語られるようになりました。
東欧革命
東欧革命は、1989年から1991年にかけて、東欧諸国で共産主義政権が次々と崩壊し、民主化と市場経済への移行が進んだ一連の政治的変革を指します。 この革命は冷戦の終結を象徴する重要な出来事であり、東欧全域に大きな影響を与えました。以下に、各国での具体的な出来事とその背景を詳述します。
- ポーランド: 1989年6月、自由選挙で独立労働組合「連帯」(Solidarność)が圧勝し、タデウシュ・マゾヴィエツキが首相に就任。
- ハンガリー: 1989年10月、共産党が解散し、多党制への移行が進む。国境開放が東ドイツ市民の西側脱出を促進。
- 東ドイツ: 1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊。1990年10月3日、東西ドイツが再統一。
- チェコスロバキア: 1989年11月、ビロード革命により共産党政権が崩壊。バーツラフ・ハヴェルが大統領に選出。
- ルーマニア: 1989年12月、チャウシェスク政権が崩壊し、チャウシェスク夫妻が処刑される。
- ブルガリア: 1989年11月、トドル・ジフコフが退陣し、共産党が改革に着手。
- アルバニア: 1990年に民主化運動が広がり、1991年に初の自由選挙が行われる。
東欧革命は、冷戦の終結を象徴する出来事であり、東欧諸国は共産主義体制から民主主義体制へと移行し、市場経済を導入しました。この変革は、国際政治に大きな影響を与え、東西対立の解消と新たな国際秩序の構築を促しました。
マルタ会談
マルタ会談は、1989年12月2日から3日にかけて、地中海のマルタ島で行われた米ソ首脳会談です。 この会談には、アメリカ合衆国の「ジョージ・H・W・ブッシュ大統領」とソビエト連邦の「ミハイル・ゴルバチョフ書記長」が参加しました。マルタ会談は冷戦の終結を象徴する重要な出来事とされています。
会談の内容と成果
マルタ会談の主な目的は、冷戦の終結を確認し、米ソ間の新たな関係を構築することでした。具体的な議題としては、軍備管理、東欧の変革、経済協力、人権問題などが取り上げられました。
- 冷戦の終結の確認: ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長は、冷戦が事実上終結したことを確認しました。これにより、両国は新たな協力関係を築く意志を示しました。
- 軍備管理と軍縮: 両首脳は、戦略兵器削減条約(START I)を含む軍備管理と軍縮の進展について話し合い、核兵器の削減に向けた具体的な取り組みを進めることを約束しました。
- 東欧の変革支援: 東欧諸国で進行中の民主化運動を支持し、その平和的な進展を支援することが確認されました。特に、東ドイツのベルリンの壁崩壊後のドイツ統一問題についても議論が行われました。
- 経済協力: ソ連の経済改革を支援するための経済協力についても話し合われました。米国は、ソ連の市場経済化への移行を支援する意向を示しました。
- 人権問題: 人権の尊重と自由の拡大についても議論され、ソ連国内での人権状況の改善が求められました。
マルタ会談は、冷戦終結の象徴として広く認識され、その後の米ソ関係の改善に大きな影響を与えました。 会談後、米ソは軍縮と経済協力を進め、冷戦後の新たな国際秩序の構築に向けた具体的な取り組みが進展しました。 また、この会談は、東欧諸国の民主化運動をさらに勢いづけ、1991年のソビエト連邦の解体へとつながる一連の変革を後押しする結果となりました。
マルタ会談では具体的な条約や協定が結ばれたわけではありませんでした。それにもかかわらず、この会談は冷戦の終結を示す象徴的な出来事とされ、ブッシュとゴルバチョフの友好的な関係が強調されました。
両首脳は冷戦の終結に向けた意志を確認し、今後の協力関係を築くための第一歩を踏み出しました。
また、会談の非公式な性格も特筆すべきです。形式張った外交儀礼が排除され、リラックスした雰囲気の中で率直な意見交換が行われました。これにより、両首脳は率直に意見を交換し、信頼関係を築くことができました。
ソビエト連邦の解体(1991年)
8月クーデター1991年の「8月クーデター」は、ソビエト連邦の終焉を決定づけた重要な出来事です。
このクーデターは、ソ連内の保守派が改革派であるミハイル・ゴルバチョフの権力を奪取し、彼の進めるペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を阻止しようとした試みでした。
ソ連は1980年代後半から深刻な経済危機と政治的混乱に直面しており、ゴルバチョフの改革はこれを解決しようとしましたが、共産党内の保守派から強い反発を受けていました。
1991年8月19日、ゴルバチョフがクリミアの別荘で休暇中に、副大統領、首相、KGB長官、国防相らが国家非常事態委員会を結成し、非常事態を宣言しました。
彼らはゴルバチョフを自宅軟禁状態に置き、彼が「健康上の理由」で辞任したと発表しました。
しかし、クーデターは市民と軍の強い抵抗に遭遇しました。モスクワでは多くの市民がクーデターに反対して街頭に出て、ボリス・エリツィン(当時ロシア共和国の大統領)はクーデターに反対する演説を行い、市民に団結を呼びかけました。
クーデターは軍内部でも支持を得られず、8月21日には失敗に終わりました。ゴルバチョフは解放され、モスクワに戻りましたが、クーデターの影響で共産党の権威は大きく失墜しました。
この失敗は、ソ連各共和国の独立運動を加速させる結果となり、1991年12月にはソビエト連邦が正式に解体されるに至りました。
8月クーデターは、ソビエト連邦の解体を早めるとともに、ボリス・エリツィンの政治的影響力を強化しました。エリツィンはクーデター阻止の功績で大きな支持を得て、新生ロシアの指導者としての地位を確立しました。クーデターの失敗は、ソ連の政治的崩壊と東欧革命に続く一連の変革の一環として、冷戦の終結を象徴する重要な出来事となりました。
ソビエト連邦の解体
- 1991年12月: バルト三国や他のソビエト構成共和国が次々と独立を宣言。
- 12月8日: ロシア、ウクライナ、ベラルーシの指導者がベロヴェーシ合意を結び、ソビエト連邦の解体と独立国家共同体(CIS)の創設を宣言。
- 12月25日: ゴルバチョフがソ連大統領を辞任し、ソビエト連邦が正式に解体される。
東欧革命とソ連崩壊の結果、東欧諸国は民主化と市場経済への移行を遂げました。 これにより、東西冷戦は終結し、冷戦後の国際秩序が再構築されました。 バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)がEUやNATOに加盟し、西側との経済的・政治的結びつきを強める一方、ロシアはポスト・ソビエト時代に新たな国家体制を模索することとなりました。
ソビエト連邦の解体後、ロシアは深刻な経済不況に陥りました。
1991年にボリス・エリツィンが初代大統領に就任し、市場経済への急速な移行を試みましたが、価格の自由化や民営化が混乱を招き、インフレ(1992年:2508%)や所得格差が拡大しました。
1998年にはロシア金融危機が発生し、政府がデフォルトし、ルーブルが急落しました。
この混乱の中で、1999年にウラジーミル・プーチンが首相に就任し、その後エリツィンの辞任を受けて暫定大統領に、2000年には正式に大統領に選出されました。
プーチンは強力な中央集権化政策と経済改革を推進し、石油や天然ガスの輸出収益を活用して経済を回復させました。
プーチン大統領の支持率が高い理由の一つは、エリツィン時代の混乱に戻りたくないという国民の気持ちが背景にあります。
エリツィン時代の経済混乱と社会不安を経験したロシア人にとって、プーチンのリーダーシップは安定と経済成長を象徴しています。
1990年代前半の金価格
1990年初頭
ソ連解体に向かう中で、1990年から1991年にかけては地政学的リスクが高まりました。しかし、ソ連の崩壊は比較的平和裏に進行したため、大規模な混乱は避けられました。
金価格はこの時期、オンスあたり約370ドルから410ドルの範囲で推移していました。
ソ連解体後(1991年以降)
ソ連が正式に解体されましたが、その後の金価格は急激な変動は見られませんでした。むしろ、1990年代前半は金価格が低迷し続けました。
金価格はオンスあたり330ドルから400ドルの範囲で推移。冷戦後の安定した国際情勢、強いドル、低インフレが影響しました。
(1990年代後半)中央銀行の金売却とワシントン合意に続く
※tradingview社のチャートを利用しています。
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